Google

2004年12月28日

いま、会いにゆきます(Written by 市川拓司)


いま、会いにゆきます


今や100万部超の売上を誇る大ベストセラーで、東宝から『世界の中心で愛をさけぶ』とともに映画化されたこの小説の概要は、最早説明する間でもないだろう。
本来、出版社に身を置く人間が一書籍に対して評や感想など認めるべきではないのだが、匿名いちライターとしてならギリギリ許されるであろうし、とりあえず記してみる。

好きか嫌いかでいえば、間違いなく嫌いなタイプの小説。自意識のみえる文章も鼻につくし、作者のナルシスティック&メルヘンティックな世界観も肌に合わない。ただ、それはあくまでも「個人レベル」の問題で、作品としての小説を語るときには、こういう主観はどこかに置いておくべきことだ。ただ、「物語」を評するときは、どうしても出発点はここからということになる。ならばいっそ開き直って、どっぷり主観に浸かって好き放題に書いてしまおう!(どうせ誰も気づきゃしないだろう。ウヒヒ)

この作者の文章が村上春樹に似ているという人も少なくないと思う、実際、私も髣髴した。が、村上春樹はどんなことがあっても「村上春樹」。これ、ヤバいんじゃないの?という展開を見せても、そこは技術で補い、なんやかやで結局ちゃんと「村上春樹作品」として着地する。唯一、彼が失敗作を紡いでいるとしたらそれは『ノルウェイの森』だが、クリスマス仕様の表紙の巧みさで売れてしまった……(市場なんてそんなもんです)。
『いま会い』については、特に「春樹=ノルウェイ」の図式が頭にある人は、「オイ、これパクリじゃねーの?!」ってほど似ていると思ったことだろう。「春の熊(ノルウェイ代表)」や「ライカ犬(いま会い代表)」なんてセンチなモチーフを使ったり、やたら音楽とか映画のタイトルや登場人物を引用してみたり、なんといっても主人公の男に書き手の想いが強く入りすぎているために、それが逆にただの不思議系で気色悪い男になってしまって、感情移入を思いっきり妨げるところとか、似すぎ! 

いかんいかん。話を引き戻さねば…。
市川氏が村上春樹の文体をパクっていると言いたいわけではなく、二人ともアーヴィングやアップダイク、カーヴァーなんかが好きだったりするらしいんで、もともと共通する何らかの資質があるのだろう。それがどことなく似たような感性を思わせる文体に繋がってしまっただけで。ただ、ハッキリいえば、村上春樹は相当クールで安定値の高い文章を書く作家だ。それに対し、市川氏は非常にライトでありながら、時に信じられないようなウェットさを見せる。
この差異はどこからくるのだろう。

要は、この二人、文章の書き方が違うのである。村上春樹は綿密なプロットを基本とし、それを構築する一文一文にとても時間をかけて総合的に作っていき、その中になにか読み手がひっかかるようなキーワードを鏤めるタイプ。市川氏はまずプロットを組み立てておき、その枠内で「これだ」と思った表現を記したいがために、肉付けをしていくといったタイプ。「シリコンチップ工場のクリーンルームみたい」という表現も、相当考えて捻り出したものだろう。そうやって考えて出した表現というのは、良くも悪くも文章の流れからはみ出してしまうものだ。その浮いてしまったボルトをちゃんと目立たぬように、でも番いが分かるように、きちんと締められるかどうかは、地の文の力にかかってくる。ところが、市川氏の文章にはその力がない。幸福だの、奇跡だの、神様だのといったビックワードに頼り、物語が読者の頭の中で飛翔しない。それが春樹との決定的な違いであり、彼の作品が「文学」たり得ない要因なのだ。

彼なりの「表現」には面白いものはたくさんある。ただ、それを輝かせるはずの前後の繋がりの描写部分が、ありきたりだったり、独り善がりになっていたりして、一気に興醒めしてしまう。結果、主人公が霞を食って生きているような脆弱なキャラクターであることもあり、いよいよ絵空事として映り、主人公から人間臭を剥ぎ取りイメージのみにしてしまう瞬間が多々見られた。もう一歩引いて、全体を俯瞰するまなざしを持てば、もっと登場人物たちに血と骨を持たせることができたのではないだろうか。
ただ言えるのは、作者はこころに詩を持っている人だということ。それを巧く物語と表現とに融合できれば、素晴らしい「文学」を生み出すことができるかもしれない。

そもそもプロットからして、よくこんな企画が通ったなと思う。最後、長〜い説明を兼ねた手紙で締めくくるのも安易すぎる。禁忌である幽霊(正確にはタイムスリップか)を出したり、というのも正直いただけない。新人賞の選考では、間違いなく落選です。

ただ、市川氏のこの泥臭いまでの素朴さが好きだという読み手も少なくないだろう。ストーリーも単純明快。多くの人が求める「分かりやすい純愛」ものだ。

ただ、今の物語(あえて小説とは書きません)はどこかで純愛と悲恋をごっちゃにしていないだろうか?

恋愛小説の定石は、泣けること=相手を殺すことのようになってしまっている。確かに、それは最も簡単な手段だ。誰しも「死」というものを経験しているだけに、そのときの記憶をシンクロさせて悲しみを共振させるのはたやすい。それに少々の恋愛経験のトッピングがあれば、涙の雨の完成だろう。
しかし本当の愛はそんなものではないはずだ。普通の営みのなかに、ひっそりと、でもあちこちに遍在しているに違いない大切な「何か」−−これが愛だ。

愛をモチーフにした本物の小説を読みたい人は椎名麟三の『美しい女』を読めばいい。何も相手を殺さずとも、たとえ求める相手の実像がなくとも、ささやかな愛はちっぽけな人間に希望を与え、それゆえに人生を輝かせるということもあるのだと教えてくれる。
もちろん、対象が死んでいるものをすべて否定しているわけではない。チャールズ・ブコウスキーの『町でいちばんの美女』は短編ながら、重厚な読み味を持っている。

『いま、会いにゆきます』も実際、短編で充分のプロット。情景や心情を語りすぎていて、想像と思考の余地がほとんどない。しかもキラキラ詩的表現で男の視点から多くをベラベラ語られると、元々オッサンな私は引く一方ですわ。「ねえ?」なんて呼びかけも多いし、サブイボ出るってばよ。「こういう男、実際にいたら相当キショいぜー」と思いつつ、ビールをくいっとあおり、スルメを食べている手でページをめくる−−作品と読み手(私)との間の隔たりは増す一方でした。
「オマエはコアな読者じゃ、ヴォケ!」と言われてしまうか? いーや、サブイボいっぱい作りながら「1575円出して買ったんだからな、死んでも読んだるわい!」と根性出して読みきった同輩も少なくないはず!!


でもやっぱりこれだけ売れちゃうってのは、素直に凄いっすよ!
ちなみに『世界の中心で愛をさけぶ』については、15ページめで凍死寸前に陥り、挫折しました。
夏になったら読みたいと思います。
posted by まりあ at 18:21| Comment(1) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
同感です。
始めてこの作者の本を読み始めて、「え? 誰かに似てる…村上春樹?」という思いを引きずりながら読み進め、え? 何この展開?と思い、気持ち悪いなーと思いつつ読み進めています。ちなみに『今会い』ではない本ですが。
セカチュウは「なんじゃこりゃ」と思ったことしか記憶にありません。
Posted by keiya at 2017年06月08日 11:16
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/1420727

この記事へのトラックバック

2004年総括〜書籍編〜
Excerpt: 映画に続き書いてみます。 とりあえず今年読んだ本を挙げてみます。 世界の中心で愛をさけぶ(片山恭一) 指先の花(益子昌一) Good Luck(アレックス・ロビラ、フェルナンド・トリアス・デ・..
Weblog: 院生さとのエンタメ+沖縄研究日記
Tracked: 2004-12-30 00:18
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。